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 【No.79】いのち  2016/09/13 (Tue)
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生まれさせられる。
I was born.
それが受動態だと知ったのはまだ十代の頃、吉野弘氏の詩からだった。

自分の意志でこの世に現れたのではないということ。
まわりで共存している動物や植物でさえ、いのちという存在は皆同じだ。
このことを意識せずに、どれだけ日々を過ごしていることだろう。

争い、天災、病。自分の意思とは関係なくいのちが奪われる毎日。
生まれさせられたいくつものいのちが今日も消えていく。


あたえられた、いのちの尊さ。
それは産まれて間もない子馬が無言で教えてくれている。





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パリ リュクサンブール公園。
その昔、ヘミングウェイが腹を空かして鳩を追いかけていた公園だ。

この広大な公園に佇んでいると、人ひとりの小ささが改めて身にしみる。

走る人、休む人、語る人、集う人。
繰り返すことのできない時間をそれぞれが共有している。


数十年前、二度目にパリを訪れたときに泊まったのが、この公園に面した小さなホテルだった。
まだ若かった自分には、公園がさほど広くは感じられなかった。

どこまでも歩いていける、そんな貪欲な気持ちと向上心が大きな網の目となり、
目の前を通り過ぎる些細なことには気づかなかったのかもしれない。

今では通り過ぎる人の表情や近くに咲く花、かすかな風の動きでさえ
眼鏡をかけて見えるように感じられる。


長い時間こうして動かずにいると、公園内にいくつもある彫像になってしまうかもしれない。

これから鳩を追いかけて駆け出してみようか。





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パリ ソルボンヌ広場。
朝まだ早い広場は、静かに時が刻まれる。


柑橘系の果物に似た甘く切ない若かりし頃の記憶。
学生街という場所に魅かれるのは、
そんな中に自分を投影してしまうからなのか。


17世紀から変わらぬ風景は、読みかけの本のように
今日も一頁が読みすすめられていく。




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1972年、パリ市内にヨーロッパで一番高いビルが建てられた。

景観が損なわれるという理由で猛反対にあうも、現在もその姿を誇示している。
「モンパルナスタワー」。モンパルナス駅の上に建てられた高層ビルだ。


全く同じ批判を受けて現在もパリに残る高層建造物がある。
エッフェル塔だ。奇しくも今ではパリの象徴として愛されている。

一方でモンパルナスタワーは愛されているのだろうか。
それはオフィスビルや高層の展望台としての役割を果たしているのは確かだが、
未だに美観と呼ぶには遠い存在というのがパリ市民の本音のようだ。

私自身、左岸で写真撮影をするときには、その大きな外観に嫌気がさしてしまうことがある。


唯一の解決策はこのタワーが画面に入らないように撮ること、
それはこのタワーに登り撮影する事かもしれない。




 【No.75】睡蓮と蓮  2016/06/15 (Wed)
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クロード・モネといえば睡蓮。

パリ オランジュリー美術館には壁面に大作が飾られた「睡蓮の間」がある。
この作品が好きな人には飽きない空間だろう。
モネの住んだジヴェルニーにはこの睡蓮を日々描いた池がある。
日本びいきだったモネはこの池に日本様式の橋も作っている。


一方で私たち日本人に馴染みがあるのは蓮ではないだろうか。
泥の中から清らかな花を咲かせる思想が仏教の教えに似ているということから
蓮は古来から仏教との結びつきがあるとされる。
仏教徒が多い日本では蓮の花に親しみを感じるのが自然かもしれない。

睡蓮の葉は円に切れ込みがあり、葉の色も一様ではない。
蓮の葉は円のかたちのままで色も変化がない。
花は水面から持ち上がって咲くものが多いようだ。


似て非なる睡蓮と蓮。

モネの油彩作品に合致していたのは、やはり睡蓮だったという気がする。


もしモネが日本のお寺から蓮の襖絵を依頼されていたら、
どんな蓮を描いていただろうか。




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温かな陽射しを背にして着飾った人達が前を通り過ぎる。
その日は音楽祭の日だった。


モーツァルトの誕生、サウンド・オブ・ミュージックの舞台、そして音楽祭。
数多くの音楽にまつわる物語がこの地で生まれた。

岩山を背にしたこの街に、どうして音楽という文化がこれほどまで浸透したのか。
それは偶然というだけだろうか。

この地で「音」は山という共鳴板を背にして
美しいサウンドを奏でる。

光の屈折、透明感のある背景の写り込み。
映像もまたファインダーへクリアに導かれる。


この街が奏でる美しさは歴史とこの地に携わった人々の賜物かもしれない。


丸くかたどられたモーツァルトのチョコレート。
在りし日のカラヤンも買って帰っただろうか。


今年もまた遠いザルツブルクに
音楽祭の夏が来る。




 【No.73】Melody   2016/05/13 (Fri)
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1971年に公開された映画《小さな恋のメロディ》。
45年の年月が過ぎた今も、映像と音楽は
記憶の何処かにしまわれている。


風がそよぐようなビージーズの曲「Melody Fair」。
そして主人公を演じるトレーシー・ハイドが
ガラス瓶を手に街を歩くシーンが印象的だ。

手にしている金魚は一度ガラス瓶から放たれて、わずかな時間水場で泳ぎまわる。
そしてまたしばらくすると、もとの瓶にもどされる。

慎ましい生活の中、夢をいだく少女と金魚がリンクする。


映画のなかで語られるセリフがいい。
「行くあてはないけど、ここにはいたくない。」

イギリスらしい何かそこにROCKを感じる言葉に惹きつけられる。


自分自身を解き放つ月。
5月はそんな月かもしれない。




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新緑の清々しい季節に、聴きたくなる一曲がある。
サイモン&ガーファンクルの「Scarborough Fair」。


Parsley, sage, rosemary and thyme


繰り返されるこのフレーズに不思議な魅力を感じる。
古くはスコットランド民謡だったこの曲はハーブのもつ象徴的な意味が
魔除けの言葉として深く根ざしていると言われている。

1967年 映画「卒業」でダスティン・ホフマンが演じた物憂げな表情も懐かしい。


北のブライトンと呼ばれる海岸沿いの地。
イギリス ノース・ヨークシャー州 スカーバラ。

恋人が住んでいると歌われたスカーバラへ。
まだ見ぬ街でのティータイムはハーブティーがいいかもしれない。


 【No.71】北の桜  2016/05/01 (Sun)
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もうすぐ五月になろうとする季節に帰郷したのは、ずいぶんと久しい。

幼い頃、よく自転車で走り回った川岸へ向かった。
懐かしい桜をどうしても見たかったからだ。


まわりの風景は随分と様変わりしたが、桜はそのままだった。

ごくありふれた浄水場に面した
人の集まることもない目立たない場所。
ただそこに桜が生きているという風情だ。

それが美しかった。


人の生き様のようでもあり
年に一度の微笑みのようでもあり。

それが愛しかった。


午後の陽ざしを浴びて
北の桜は遅い春を告げる。





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パリ サンジェルマン・デ・プレにある「カフェ ドゥ・マーゴ」。
店内には店名の由来にもなっている二つの中国人形が飾られている。

サルトルやボーヴォワールなど文化人にも愛された歴史あるカフェは、
場所の良さもあり観光客があとをたたない。


朝まだ早い開店直後、男が出入口近くの石の床をおもむろに開けている。
床面の一部が地下倉庫の扉になっていて、そこから食材などを地下へ搬入していた。これも普通のことなのだろう、ギャルソンが男と楽しそうに話している。


時間が経つとともに新聞紙を手にした背広姿の客や、老夫婦などが席につく。
まだ観光客が席を埋めるには早い時間だ。


思いたくはないが、近未来にはロボットがカフェでサービスする日がくるかもしれない。その時、中国人形はどうなっているのか。ぼんやりとそんなことを考えた。


カフェでは、今日も変わらない日常のひとこまが繰り返される。




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ハンガリーの片田舎、エゲルという小さな街へ数日間滞在した。
1993年。まだ自分も若かった頃だ。

ブダペストの知人に数人の地元に住む友人を紹介され、そのなかにティミという女性がいた。
彼女は20代の学生だったと思う。

言葉の通じない自分に、片言の英語で熱心に街のいろんな場所を案内してくれた。
街にある名所やミナレット、周辺の葡萄畑や湖。夜は友人達とクラブへ行き、ダンスのうまかった彼女は私の手をとり一緒に踊ってもくれた。
フロアにはACE OF BASE のTHE SIGNが響いていた。
言葉の不便さはあったけれど、お互いに何とか気持ちを伝えようと懸命だった気がする。


数日が過ぎた旅立ちの日。
ティミは自身の住むアパートメントに私を案内してくれた。
部屋へ入ると彼女は引き出しから1枚の写真を取り出した。
それは制服を着た彼女がひとり写っているモノクローム写真だった。
その写真を裏がえし、自分宛のメッセージを記してくれた。


思ってもみなかった行動だった。
自分は少し照れながらその様子にカメラを向けた。
今思い返すと、その時本当は照れるどころか感動して熱くなっていた気がする。
ファインダーが揺れていた。


あれから長い年月が過ぎた。


ティミは今どうしているだろうか。
いつか日本へ行ってみたい、そう言っていた。


瞼の奥にティミの笑顔が映る。



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公園のベンチ。
気の合う人との語らい。


パリ15区にあるこの公園は、大きな広さではないが近隣に住む人たちの
安らぎが伝わる素敵な空間だ。アール・デコの小さな門も洒落ている。


短い人生で長い時間をこんな公園でくつろぎたい。


そこで暮らし、住まいの近くにある公園というのが条件かもしれない。
もちろん異性の話し相手が隣りにいてくれれば、言うことはない。





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パリの下町「メニルモンタン」。

ロベール・ドアノーの写真にはこの地区で撮られた微笑ましい写真が沢山ある。

時代が移り街の風景も様変わりしているが、いまでも決して裕福でない人達が
住んでいる様子は変わっていない。

ただこの街にはシャンソンにも歌われている心意気とユーモアがある。


街角で見かけたレストラン・ル・メニルモンタンのメニュー。
車にも何か食べさせてくれるのか。




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この8×10大判カメラは木製で比較的軽いと思われているが、それでもフイルムホルダーやレンズ、大きな三脚を一緒に持つと、相当な重さになる。

私は無理を承知でこの一式を抱えてパリまで行っている。

移動手段は地下鉄と徒歩。雨が降ると何処かの軒先で雨宿りするしかない。
両手がふさがっていて傘を同時に持てないからだ。

早朝このカメラを引きずって歩いていると「Musician?」と声をかけられる。
大きなバッグには楽器でも入っていると思うのか。

撮影場所でカメラをセットすると、それだけで目立ってしまう。
それもあって早朝の人気のない時間を選んでいるのだけれど、通勤途中の地元の人が親指サインで「いいね」と通りかかると、照れずにはいられない。

パリでは表現することや創作することに寛容な雰囲気がある。



昨年の暮れ、一通の喪中葉書が届いた。それはU氏が他界した知らせだった。

U氏の店で私はディアドルフを買い、その後幾度もカメラについて、レンズについてU氏の丁寧なアドバイスを受けた。
私が旅に出る前など、ディアドルフについて長い時間語り合ったことが懐かしい。


これからはU氏のアドバイスは得られないが、U氏の言葉が詰まったディアドルフを抱いて、また旅に出る。







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ケーブルカーで数分、小高い丘を登るとかつての宮殿「ブダ王宮」だ。


この高台からブダペストの代名詞、ドナウにかかる「鎖橋」とその対岸に広がるペスト地区の美しい景色が見おろせる。


戦争の悲劇で破壊されたこともあるというこの橋だが、
今はライトアップされた姿が見る者を癒してくれている。


ブダペストに住む知人からハンガリーについて教えられた言葉を思い出す。

「ワインに例えるならハンガリーはひと時赤に染まった。
 ただ心は完全な赤にはならなかった。ロゼくらいには
 なったかも知れないが。」


今日も鎖橋は静かに輝いているだろうか。




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観光客姿を見ることのないブダペストの街はずれ。
見知らぬ国での緊張感。
「人民競技場」と名付けられたひと気のない地下鉄駅。

1週間ほど滞在した場所はホテルではなく賃貸ルームで、大きな通りに面した角地の2階だった。

地下鉄の駅からは幾分離れていて、地図を捜しながらたどり着いた時にはぐったりした記憶がある。部屋はそれなりに整っていたが初日からトイレの水洗の具合が悪く、それは自分で直す必要があった。

今思い返すと、それまでの長旅でホテル住まいが続いていたせいか、少し古びたその部屋が妙に落ち着けた気がする。
そこを起点に何日か地方へ行き、もどって来たときには安堵感があった。

深夜、部屋の窓から静まりかえった車道にLEICA M5を向けて、スローシャッターをきる。

モノクロームの光が交差する静かな夜だった。

もうこの場所に来ることはないかもしれない。
ただ此処でいま感じられる空気と、静かに刻まれる時間を忘れたくないと思った。



「Népstadion ネープスタディオン」
地下鉄内でそうコールされると、あの部屋がある街に着く。



※2004年この駅名は「stadionk」に改名された。






 【No.63】階下へ  2015/11/14 (Sat)
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陽だまりを求めて近くの住人達が集うパリ モンソー公園。
その公園に隣接して建つ「ニッシム・ド・カモンド美術館」

この美術館で見るべきものは名画ではない。
そこに住んでいた人たちの生活、そしてその生活を支えた厨房だ。

観光で有名レストランに入っても、そこの厨房にまで立ち入ることはないと思うがここでは前世紀に作られた当時の贅を尽くした設備をそのまま見ることができる。

美しく磨かれた銅鍋に鉄製の巨大なオーブン。
重厚感のある鉄の一面にはparisの刻印が光る。

タイル貼りがきれいな厨房に面した部屋では主人に出すメニューをここで書き記したであろう痕跡が見てとれる。それは昨日までそこに人がいたような温もりを感じる空間だ。
厨房に隣り合わせたもうひとつの部屋は使用人の食堂。
家庭的な雰囲気のなかに、在りし日の静かな会話が聞こえてきそうだ。

階段を上の階へ進むと、静かな住まいが現れる。
決して広すぎない考えられたいくつかの部屋には、主人が愛した調度品が今もそのまま呼吸をしている。タピスリーや絵画、食器のコレクションでさえこの家のために存在しているかのようだ。

銀行家であったモイズ・ド・カモンド伯爵。
若くしてこの世を去った息子「ニッシム」を偲び、この館の名前に加えたという。

華やかなブルジョワの生活模様といえばそれまでだが家庭内では翻弄された運命が繰り返される。

ひとはお金という大きな力で相当の満足を得ることができる。1910年に建てられたこの邸宅を見ればそれには疑いがない。
ただ見るべきは上階の華麗な生活感ではなく、階下に築かれた必要不可欠な厨房だという気がしてならない。

主人が最期まで求めた家族の幸せは、階下にこそあったのではないだろうか。




 【No.62】建築作品  2015/09/27 (Sun)
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これまで建築を「作品」と呼ぶ建築家に抵抗があった。
建築というのは依頼主からの要請を受けて成立する仕事であって、建築家の作品としては独自性が乏しいのではないかという疑念が自分にはあったからだ。

先日、目黒美術館で「村野藤吾の建築 -模型が語る豊饒な世界」を見てからは少し考え方が変わった。

ひとりの建築家が携わった数多くの建築。
そしてそれらを具現化した精巧な模型。
確かにそこには数多くの依頼主が存在し、半世紀以上という年月の痕跡が垣間見れる。

展示を見てそこに発見できるのは依頼主の意向や名称を超えて村野藤吾そのひと、そして作品が存在している気がした。

建物は「使われる」ことを前提としてこの世に生み出される。

当然として使う人の要望が随所に盛り込まれ、形にも影響を与える。ただそれらを具現化し、ひとつの「形」に積み上げるのは建築家自身だ。

美術館で手にした村野藤吾氏との対談をまとめた一冊の本に、村野氏自身の考え方を伺うことができる。


「数えられる数の間に、無数の数があるということに気がつく。0.1からたくさんある。もっともっと細かく微分することもできるでしょうね。それを探求していくこと、これが私はヒューマニズムだと思う。」
-村野藤吾「建築をつくる者のこころ」より-


村野氏は「ヒューマニズムとは、それを探求すること」と説明している。

村野藤吾氏が追い求めていたもの。
探求し残してきた蓄積。
それは「作品」という枠組みを超越して建物そのものが生み出す「空気感」を求めていた気がする。



 【No.61】量と質  2015/09/20 (Sun)
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大学時代、友人のアパートへ行った際に一冊の写真集を差しだされた。
森山大道氏の写真集だった。まだ写真にはそれほど惹かれてはいない頃だったが、氏の名前は知っていた。友人は森山氏の写真を気にいっていて、頁をめくる自分に同調をもとめる素振りだった。時代を経て森山氏の写真が今でも人気のある要因は、早くから自身のスタイルを確立していたからだろう。

雑誌に載っていた森山氏の言葉でうなずいた一節がある。

「量のない質はない」

咄嗟にうず高く積まれた印画紙の量を想像した。
もちろんそれら全てが陽の目をみることはなく、選ばれた一部だけが私達の前にさらされるわけだが、クオリティという言葉に慣らされている今の自分達には何処か響くところがある。
量より質という幻想にとらわれて、これまで何かを見失ってきた気がするからだ。

絵画におけるデッサンもまた量が重要視されるのは同様だ。デッサンそのものは目にする機会こそ少ないが、一枚の絵のベースになったデッサンの量がその過程を支えていると言える。

こと自身の制作に目をむけると、まだまだ量というには程遠い域に留まっている気がする。
量の先にある質へ、まだ先は長いのかもしれない。




 【No.60】動かぬ時  2015/09/15 (Tue)
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夏の終わり。

故郷である田舎町にある古びたバー。

窓際に佇む白い少年。

「君はいつからそこにいたんだ。」

動かぬ時がいつの間にか
数十年を刻んでいたのかもしれない。




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