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 【No.111】Seesaw  2017/07/19 (Wed)
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ひとりで遊ぶことの多かった自分は、
子どもながらにこの遊具に興味をもてなかった。
というか、あまり乗ったことがなかった。


誰もいない公園でシーソーを見つめる。


軽い方が上へ、重い方が下へ。
当然だが、それは重力を目で見るということだ。
現実を直視するような「力」というバランス。

数値化、基準、評価。社会で必要とされるものには数字がともなう。
見方によっては競争社会での「振り分け」ともいえる。


一方で写真や絵画は数値では計れない。
もちろん売ることで評価額は決定するという見方もあるが、
売ることを目的としない作品があるのも事実だ。


作家は作品を通してどれだけのメッセージを伝えることができるか。
目に見えない「心の中のシーソー」を傾けることができるかが重要だ。



公園のシーソー。

恋人達なら、こんな楽しい乗り物はない。
相手がいれば、今でも恥ずかしがらず乗ってみたいと思う。
自分には訪れそうもないシーンだが。




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フランスの店では外見でお客を判断することが多いとよく言われる。

「見かけは大切」というのは世界共通なのかもしれないが、現代においてはTPOは別にして、そうした見方は少なくなりつつある気もする。



先日「おとなの恋の測り方」というフランス映画を観た。

この映画は外見でひとはどれだけ物事を判断して、それよって左右されてしまうか。という誰もが陥いる先入観と、それをうち破り克服する大切さを「恋」という題材で物語っている。

わかりやすいストーリーだが、そんな中に私たちが普段の生活でどれほど偏見を抱えて暮らしているかと反省させられる。



見かけと中身は別。確かにそういうことである。
写真はどうだろうか。見かけだけだろうか。
中身は感じられないだろうか。

外側にある見えるものと内側にある見えないもの。
それらをどう表現できるかが求められる。

自分には写真の中身が見えているだろうか。




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それは魔女の囁きだろうか。
通過するひとや車の流れに、微かな笑みで誘いかける。


パリ16区 ロンシャン通り。

ここは教会ではない。
ましてや自らを懺悔する場所でもない。
それでも通りすがりの私たちに何かを咎めるかのように、
その婦人の彫刻は語りかけてくる。

アパート階上には普通に何人もが暮らしている。
はたして毎日此処を通りぬける住人はどんな気分なのだろうか。

しばらくすると、身なりの整った年配の紳士が扉から出てくる。
いつものことなのか、入口の彫刻など気にかける様子もない。


もしかしたらこの婦人の彫刻が話しかけているのは
限られたひとだけなのかも知れない、そんな気がした。
だとすると彫刻は自分にだけ語りかけているのか。

近寄ってじっくりと彫刻に視線をおくる。
アールヌーボー様式の草花が婦人を囲み、
表情は沈黙するかのように遠くを見据えている。



夕刻近く撮影を終えて、その日は足早にホテルへもどった。
帰り途中、地下鉄で婦人の顔が脳裏に浮かぶ。

建物に婦人が来て既に100年以上経っている。
これから先、変わることが無ければ数百年はあの場所で微笑んでいるかもしれない。

そう想うと、孤独な石の婦人にまた会いに行きたい気がした。




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夏の休日に
裸足で聴くガーシュウィン


午後四時のヴィシソワーズ

よく冷えていることが大切である
器もまた同じだ

滑らかな口あたりと
野菜の奥深い甘さ


冷たく白いビロードが
身体のなかへ溶けていく





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ふとしたきっかけで
食器棚にしまいこんであった一客の器と再会した。


シリーズ名は「インドの華」。
ハンガリーを代表する1826年創業、ヘレンド社のカップ&ソーサーだ。

細くひかれた曲線がインドに咲く美しい花々を描き出す。
その神秘なまでの異国情緒は、一杯のお茶と共に多くのひとを魅了してきた。
ヘレンドに多額の投資をいとわなかったロスチャイルド家の人々は、
誰よりもこの器を愛していたに違いない。


ブランドの印象とは不思議なもので、古くから変わらず造られてきた製品には
何かそこに特別な重みを感じてしまう。

それは過ぎ去った時間の重みなのだろうか。



そういえばこのカップでまだお茶を飲んだことがなかった。

雨上がりの朝、インド高地から荷車に積まれ運ばれた季節の花。
滴が残る葉の隙間から漂う甘い香り。

湯気の向こうに、そんなが情景が浮かぶかもしれない。





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