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滑らかな口当たりの一杯。
そう一言でいってしまうには
言葉がたりない。


ウィーンの街を喉をからして歩いた記憶がある。
数十年前の暑い夏だった。
カフェへ入っても、よほど高級店でないかぎり
氷の入った水は出てこない。

地元のひとが集まる安いカフェに入る。
一杯のコーヒーが、潤いと安らぎを差しだしてくれた。



ネルドリップには奥深い味わいを出す魔法がある。
繊維の奥に秘められた長い時間を、珈琲豆が短時間で
タイムスリップする。


時間を巻き戻せるなら、
ウィーンで味わったあのコーヒーに
また巡りあいたい。


そう思うと、ウィーンがネルで
自分が珈琲豆のような気がしてきた。
タイムスリップはできないけれど。





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雑誌やテレビでラーメン店が紹介されると、
日本人のラーメン好きがよくわかる。
街中でもいたるところに店舗がある。


ロンドンの繁華街にも数は少ないがラーメン店がある。
そしてそこにも何故か日本人が集まる。
理由はいくつかあり、価格が他のレストランに比べて安いこと
(日本と比べると決して安くはないが)、
食べ慣れていること、日本語が通じることなどだ。
味といえば並といったところか。


笑ってしまうのは、何人かの日本人旅行グループが
自由行動で昼食時に同じラーメン店で偶然に顔を合わせてしまうこと。
ガイドブックを片手に結果的に同じ道を選んでしまう。
安心ということに弱い、いかにも日本人らしい行動と言える。
かく言う自分も友人と別々に観光していた際、
たまたま入ったラーメン店で顔を合わせてしまったことがあり
苦笑いしてしまった。


英語が通じること、時間や決められたことを守ること、
これらはロンドンが馴染みやすい理由かもしれない。



自分にはあまり魅力的に感じられなかったロンドンだが、
休日の東京で昼食時にひとりラーメン店にはいると、ふと思い出す。


この季節は東京よりも気温が下回るロンドン。
寒空の下いまも誰かが似たようなものを食べているのだろうか。





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私は勤勉ではなかった。
それは今でもあまり変わってはいない。

図書館に通うひとたちや、図書館名のラベルが付いた本を読んでいるひとを見かけると、心の何処かにコンプレックスを感じていた。

今にして思うと街の本屋にばかり通う自分にとって図書館に並ぶ蔵書の一群は、
その秀でた雰囲気が自分から距離を感じさせる場所だった気がする。

小さい頃の自分は好きな本があると、買って手元に残したいという気持ちが強かった。そんな気持ちから「本を借りる」という行為に抵抗があったのかもしれない。



図書館で本棚の片隅に佇むひとりの少年。

ファインダーを通して不思議な回想が自分をつつみこむ。
もう一度あの頃にもどれたら、今は別の自分になれたのかもしれない。


カメラから目をはなすと、そこにはもう少年の姿はなかった。

彼は自分が憧れたもうひとりの自分だったのかもしれない。






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長編小説で、結末がはっきりと明示されていない作品がある。

物語が全て起承転結で終わるとは限らないが、
それは人の一生も同じような気がする。


まだ次のページがあると信じて生きる。
だがおおむね道半ばにして一生は途絶える。

それが自然の摂理かもしれない。



今日そして明日の時間を普通に生きる。
普通のことが普通に終わる。

本当は普通のことなんか何もないと思いつつも
日々をおくる。


それぞれがたどる物語がそこにある。





 【No.89】白い世界  2017/02/04 (Sat)
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東京を出てまだ1時間もたたない頃。

ぼんやりとしていた自分の目の前に忽然として白い風景が現れた。
田畑も屋根も林も、遠くに連なる山の峰もみな白い衣に覆われている。

モノクロームに映る現実の世界。


何年も前に冬の北海道で遭遇した風景が蘇る。

それはやがて、あらゆるものを全て白く覆いつくしてしまうかのような、
そんな景色だった。
大きな木立ちの奥にあるのは別の世界かもしれない、そう感じた。
ひとの声、風の音さえも白い吸音材の中へと消えていく。

次の世界への通過点。

あのままカメラを片手に進んでいれば、
もしかしたら別の世界が見えたのかもしれない。



東京にもどり、日常の世界へ。
バスに乗り合わせた子供が手にしていたゲームは、
いとも簡単に次のステージへ進んでいた。




 【No.79】いのち  2016/09/13 (Tue)
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生まれさせられる。
I was born.
それが受動態だと知ったのはまだ十代の頃、吉野弘氏の詩からだった。

自分の意志でこの世に現れたのではないということ。
まわりで共存している動物や植物でさえ、いのちという存在は皆同じだ。
このことを意識せずに、どれだけ日々を過ごしていることだろう。

争い、天災、病。自分の意思とは関係なくいのちが奪われる毎日。
生まれさせられたいくつものいのちが今日も消えていく。


あたえられた、いのちの尊さ。
それは産まれて間もない子馬が無言で教えてくれている。





 【No.71】北の桜  2016/05/01 (Sun)
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もうすぐ五月になろうとする季節に帰郷したのは、ずいぶんと久しい。

幼い頃、よく自転車で走り回った川岸へ向かった。
懐かしい桜をどうしても見たかったからだ。


まわりの風景は随分と様変わりしたが、桜はそのままだった。

ごくありふれた浄水場に面した
人の集まることもない目立たない場所。
ただそこに桜が生きているという風情だ。

それが美しかった。


人の生き様のようでもあり
年に一度の微笑みのようでもあり。

それが愛しかった。


午後の陽ざしを浴びて
北の桜は遅い春を告げる。





 【No.60】動かぬ時  2015/09/15 (Tue)
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夏の終わり。

故郷である田舎町にある古びたバー。

窓際に佇む白い少年。

「君はいつからそこにいたんだ。」

動かぬ時がいつの間にか
数十年を刻んでいたのかもしれない。




 【No.59】川へ  2015/07/20 (Mon)
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川へ飛び込んだことはあるだろうか。

まだ小学生の頃、虫を捕まえに翻弄し川岸の草に止まっていた虫に手を伸ばした。大きな川だったので
「踏み出せば虫は捕まえられるが、川へ流されて死ぬかもしれない」
咄嗟にそう感じたことを覚えている。

さすがに大人になれば分別なしに川などには飛び込む理由はないが、よくテレビで野球ファンが優勝した興奮で飛び込む姿を見かけると、またやったかという冷めた視線を投げかける自分と、自分も何かにとらわれず思い切り飛び込んでみたいというもうひとりの自分がいることに気がつく。

自分でも不思議に思うが、川のもつ吸引力に導かれて人はしばしば川へ飛び込んでしまうのかもしれない。

立ちはだかる大きな流れが目の前にあるとき、その先にある岸辺へ渡ろうとする本能。

生死の迷いを海や河にたとえて、向こう側の岸は「彼岸」と呼ばれている。
たまに目を凝らして遠くを見つめているが、まだ自分に彼岸が見えないのは幸せなことかもしれない。



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「ミスターロンリー」がラジオから流れ、城達也氏の声が聴こえる午前零時。

ひとり暮らしの学生時代、社会人になり遅く帰った夜、ふと深夜FMから流れる「ジェットストリーム」に何度癒されたことだろう。

特にエンディングの 
「夜間飛行のジェット機の翼に点滅するランプは
遠ざかるにつれ次第に星のまたたきと区別がつかなくなります」
というナレーションは、幾度聴いても心に響いた。

1994年12月、最後の番組。
27年間続いた放送を終えた翌年に城氏は他界した。

すでに20年という年月が過ぎ去ったが、いまもラジオから遠い日の記憶が蘇る。
自身が星のまたたきとなった午前零時の紳士に、リスナーとして感謝したい。




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