back to TOP

admin |  RSS
th_◇image1


誰にとっても過ぎ去った若き時代というのは、気恥ずかしさが
あるような気がする。
希望に満ちた10代、そして社会と関わりをもった20代。

自分にも弱さと葛藤のなか、時間だけが経過する年月があった。



社会人になって間もない頃、お世話になった写真機材を扱った店の店主から
小さな1枚のモノクロコピーをもらった。
店主は「これはきっと役に立つから」とだけ言い、差し出してくれた。

そこには写真と簡単な文章がそえられていた。

写真は映画監督の黒澤明氏だった。
そしてこう記してある。


  みんな、
  自分が本当に好きなものを
  見つけてください
  自分にとって本当に大切なものを
  見つけるといい
  見つかったら、その大切なもののために
  努力しなさい


そのときは、良いことを言うな、
というくらいにしか感じられなかったが、
店主の心遣いに深々と頭を下げてその場を立ち去った。



そしてそんなエピソードから数十年が経った。

もう店主はいないかも知れない。
あの時、店主がどうして自分にコピーをくれたのかは
今でもわからない。
ただ小さなモノクロコピーは今も手元に残っている。



時折そのコピーを読み返しては自問する。

自分にとって本当に大切なものは見つけられたのか。
そして大切なもののために努力してきただろうか。


答えは自分の中にある。





th_◉image1

好きなひとへの想いを手紙に書いたことはあるだろうか。

大正10年10月。
「白蓮事件」と世間を騒がせた柳原白蓮の逃走。

白蓮(燁子)から恋人・宮崎龍介へあてた手紙は実に700通におよぶという。

いまでは電子メールやSNSといった通信手段が手軽に使われる時代だが、
当時の郵便事情でのこの数には驚くほかない。



「好きな好きな手紙を下さい。
見度い見度い。わたしの人。
恋しうて 淋しうて なつかしうて 悲しうて 
どうしたらよいやら」


恋は盲目という言葉があるが、
一途な燁子の想いが突き刺さる文だ。


96年前の10月、「恋」という一文字を胸にしまい出奔した燁子。

時代の流れ、過去など顧みず、自分の信じる道を
駆けていったひとりの女性の生き様と凛々しさ。


その波乱に満ちた生き方が今もこころに響く。





th_◆image1

木立ちをこえて池が輝いていた。


パリの南端に位置する公園では、
観光客の姿を見かけることは稀だ。

近くに学生たちが住む施設があるからか、
若者の姿をよく見かける。
近所から散歩にきている老夫婦、親子連れ、恋人たち。
周辺に住むひとたちの憩いの場所だということが
見ていて感じられる。


パリに住むということ、それはこの公園で過ごす時間が
静かに教えてくれる。


生きている喜び、悲しみ、怒り、嫉妬、歓喜。
一人ひとりが発するすべての感情を、
何種類もの花や樹木、水面に集う鳥たちが癒してくれる。
そして求める幸せが何処にあるのかを問いただす。



1865年に開園したこの公園はかつて石切り場だった。
パリにある石造りの建物たちが産まれた場所。



ここには母親のような優しさを感じさせる何かが眠っている。





 【No.124】Cavatina  2017/10/21 (Sat)
th_Hama.jpg


心がつながるひとと
時には手をとり
橋を渡ろう


イヤホンをふたり
片耳づつ手をそえて
Cavatinaを聴けば


忘れかけた冬の温もりが
ギターの響きと共に
重ねた手から伝わる




※Cavatina
イギリスの作曲家スタンリー・マイヤーズによる曲。
映画「ディア・ハンター」(1979年)のテーマ曲としても知られる。




th_●○image1

金木犀の小さな妖精たちが放つ芳香。

その数秒の出来事が一年に一度、自分を導く。



姿や形が見えない花の香り。

調香師、ソムリエ。音楽家。
見えないものを追いかける人たちがいる。


あるフランス人の調香師はこう言っている。
インスピレーションは心をオープンにして、いろんなことに関心を持つこと。
調香は芸術でもあり、言語や概念にはすべて還元しきれない。


見えないものの捉え方。
それは永遠のテーマだ。


写真機が進化した今日、私たちに求められる共通の鍵が
そこにあるような気がする。





 【No.122】Serenade  2017/10/09 (Mon)
th_▲image1

風が水面を誘い

波紋が揺れて

光がプリズムを描く


Schubert "Serenade"


その甘美な世界に

たどり着けない何かを感じる


それは白鳥が舞う
死と隣りあわせの歌だからだろうか





 【No.121】折り紙  2017/10/01 (Sun)
th_◉image1

海外へ旅行した際、親しくなったひとへ折り紙を
渡したことはないだろうか。

自分も過去に鶴の折り紙を上げたことがある。

そのへんにあった紙きれで簡単に折られた鶴。
果たしてこんなものでと思ったものだが、
鳥の造形に変化した小さな紙きれを嬉しそうに
手にとってくれた。


丁寧に折られ温もりを感じる紙の鶴。

見返りを求めない愛とでもいえるのか、
負担にならずさりげないのがいい。


あまり出しゃばらず控えめな優しさ。

数字に置きかえると1ではなく0から1までの間。

その間に美しさがあるような気がする。




 【No.120】風になる  2017/09/25 (Mon)
th_img060.jpg

駅には静けさという言葉がそぐわない。
静かだと感じていても、どこか遠くからひとの声や物音が響いている。


列車がまた一本、ホームへ到着する。

仕事や休日で移動するひと。
故郷へ帰るひと。
恋人や家族を待つひと。

それぞれの想いが、それぞれに散らばる。



駅には風が吹かない。

ひとが風になるから。





※ パリ オステルリッツ駅。1840年開業。
フランス南西部への道筋を繋ぐこの駅は
かつてはパリ・オルレアン鉄道の駅として
別名オルレアン駅とも呼ばれていた。
リモージュやボルドー、遠くはスペインへも、
この駅から列車が出る。
 【No.119】兆し  2017/09/20 (Wed)
th_□image1

それは何かが起ころうとする気配。
季節の変わり目にも似た、湿度の違う空気が漂う。

このわずかな陽の光が通り過ぎると、
向こう側には灰色の一団が待ち受けている。

動物が本能で居場所を変えるように、
そのかすかな兆しが自分の前を通過する。


無意味な想像が頭をよぎる。
君は今頃、どこにいるだろうか。
行きつけのカフェで読みかけの本を読んでいるだろうか。
それともこれから行く旅の支度をしているのだろうか。



樹木の生茂る中でひとり、自分はカメラと共に立ち尽くしていた。


何かが変わろうとしている。
そんな9月の一日が過ぎていく。





 【No.118】Delete  2017/09/12 (Tue)
th_□image1

もう処分しようとした古いデジタルカメラ。

旧式のメディアに何枚かの写真が残っていた。

ひとりの笑顔が蘇る。

感傷的な気持ちとラジオから流れる不釣合いな曲。


「削除」という簡単で重い言葉。

データは黒い画面となり瞬時に消え去る。



消し去ることのできない想い出が
胸のハードディスクに残る。





■th_image1


アート・ファーマー 1977年のアルバム。
「The Summer Knows」

学生時代に中古レコード店で買ったこのアルバムが気に入って、
くり返し何度も聴いていた。
ジャケットの帽子写真が、古いフランス映画の一場面のようで、
それも好きな理由のひとつだった。


もっと大人になったら、こんな帽子が似合う女性と恋愛ができるだろうか。
恥ずかしいが、その頃はそんなことも考えていた。


いろんな夢を抱いていた気がする。

そしていくつかの夢は叶い、いくつかの夢はまだ叶っていない。


おもいでの夏。
それは「夢の続き」なのかもしれない。





th_○mage1


「そのゲームはいつ終わるの?」

「わからない。いつも途中で中断しては、またその途中から始まる。」

「終わりがないってこと?」

「いや、いつかは終わりがくる。自分がそこに浸っているだけで、
 やめようと意識すれば、そのときが終わりだよ。」

「そうしてゲームに浸っている時間に大切なものを失っていると思わない?」

「そうだね、失っている時間は多いと思うよ。」



自分は無意識のうちに時間を無駄にしているのだろうか。
そんな会話のあと、スパイラルに迷い込んだような空白の時が過ぎる。


休日の午後、カフェから赤いスポーツカーが見える。



ひとは時として快楽の迷路に迷い込む。
そしてある時は静から動への欲求にとらわれる。


自分の心にスポーツカーは存在しているだろうか。



今日という一日をどう生きるか。

求める一枚の写真は、そんな一日の何処かで待っている。





 【No.115】左岸の朝  2017/08/23 (Wed)
th_img492.jpg

「こんなにも長い間共鳴し合えたこと、
 それだけですでにすばらしいことなのだ。」

シモーヌ・ド・ボーヴォワールの言葉だ。
それはサルトルというかけがえのない人物に捧げられたことは
言うまでもない。


自分はこれまで写真について何かに共鳴してきただろうか。
思い返すと、何より共鳴してきたのは陽の光だったような気がする。
とりわけ朝の光は、想い出深いものが多い。



左岸の朝。
畑仕事に向かう人のように早朝ホテルを出る。
重い荷物を抱えながら歩くパリの街角。

柔らかな陽の光が、
これから始まる一日を優しく迎えてくれる。




 【No.114】Le Pain  2017/08/17 (Thu)
th_●image1

香ばしく焼けた、ひときれのパン。
お米が主食の日本では、パンの焼きたてを食べる機会は未だに少ない。


パリでは朝からパン屋に行列ができる。
焼きたてのパンを求めて、普段は我慢するのが嫌いなパリっ子が
このときばかりは大人しく並んでいるのが痛快だ。


店によっては東京のパン屋も十分においしくなったが、パリで食べるパンとは
根本的なレベルが違うような気がする。

このことは逆の立場を考えれば分かりやすい。
お米なら電気釜ではなく、昔ながらの大きな鉄釜で。
ゆすぎは慎重に、水はきっちりと計量。
選んだ米を使用して、少しかために。
パリでこうした白飯を口にするのは難しい。

パンであれば相当の注意点があるはずだ。
しかもパン屋によってはそれぞれレシピが違う。


何はともあれ、美味しく焼けたパンを食べる幸せは何物にも代え難い。
まずはその甘い香ばしい香りと、焦げる手前の表面の色だ。
そして樹皮のように硬い外側に反して、
内側のコットンのような歯ごたえと弾力のある中身。
ひときれ口にした際の、鼻から抜けるような微かに温かい穀物の湯気。
これこそが美味しいパンを味わう瞬間かもしれない。



今朝の我が家の食卓では、トースターで焼かれた食パンが待ちかまえていた。
もちろん、ごく普通に。




■image1

paris

アンリ・カルティエ・ブレッソンが撮った
「雨の中のジャコメッティ」。
パリの街を傘もささずコートをかぶり歩くジャコメッティ。

自分も雨の中、彼を見ていたような錯覚におちいる。
芸術家の人柄と存在感が記された一枚だ。



tokyo

展覧会場を出て中庭から空を見上げた。
雨が降っている。
先程まで感心して観ていた絵ではなく
いくつか別のことが想い浮かぶ。

イギリスの片田舎で
雨の中をBarbourのコートだけで歩いた記憶。
長時間雨にさらされることが
どれほど体温を奪うのかと思い知らされた。

若かりし頃、
雨は今より冷たく感じていた気がする。
肌で感じる雨粒が確かに冷たかった。
いまでは細胞が鋭敏さを失っているのかもしれない。




「肌で感じる」

そんな作品に出逢えたら、
幸せだと思う。





 【No.112】 Moon River  2017/08/01 (Tue)
th_image1のコピー


欲望の底にある虚栄心
それは一握りの幸せかもしれない


何台かのカメラを手にしても
まだその先に別の世界があると信じて
更に別のカメラに心が動く
レンズも同じだ


本当は一台でいい
レンズも一本でいい
ひとつのカメラが自分の眼となり
身体の一部となりさえすれば


そう信じている一方で
まだ見ぬカメラを追い続けている

わずかな幸せと別の世界を夢みて





 【No.111】Seesaw  2017/07/19 (Wed)
th_2image1.jpg

ひとりで遊ぶことの多かった自分は、
子どもながらにこの遊具に興味をもてなかった。
というか、あまり乗ったことがなかった。


誰もいない公園でシーソーを見つめる。


軽い方が上へ、重い方が下へ。
当然だが、それは重力を目で見るということだ。
現実を直視するような「力」というバランス。

数値化、基準、評価。社会で必要とされるものには数字がともなう。
見方によっては競争社会での「振り分け」ともいえる。


一方で写真や絵画は数値では計れない。
もちろん売ることで評価額は決定するという見方もあるが、
売ることを目的としない作品があるのも事実だ。


作家は作品を通してどれだけのメッセージを伝えることができるか。
目に見えない「心の中のシーソー」を傾けることができるかが重要だ。



公園のシーソー。

恋人達なら、こんな楽しい乗り物はない。
相手がいれば、今でも恥ずかしがらず乗ってみたいと思う。
自分には訪れそうもないシーンだが。




th_img001.jpg


フランスの店では外見でお客を判断することが多いとよく言われる。

「見かけは大切」というのは世界共通なのかもしれないが、現代においてはTPOは別にして、そうした見方は少なくなりつつある気もする。



先日「おとなの恋の測り方」というフランス映画を観た。

この映画は外見でひとはどれだけ物事を判断して、それよって左右されてしまうか。という誰もが陥いる先入観と、それをうち破り克服する大切さを「恋」という題材で物語っている。

わかりやすいストーリーだが、そんな中に私たちが普段の生活でどれほど偏見を抱えて暮らしているかと反省させられる。



見かけと中身は別。確かにそういうことである。
写真はどうだろうか。見かけだけだろうか。
中身は感じられないだろうか。

外側にある見えるものと内側にある見えないもの。
それらをどう表現できるかが求められる。

自分には写真の中身が見えているだろうか。




⭐️image1

それは魔女の囁きだろうか。
通過するひとや車の流れに、微かな笑みで誘いかける。


パリ16区 ロンシャン通り。

ここは教会ではない。
ましてや自らを懺悔する場所でもない。
それでも通りすがりの私たちに何かを咎めるかのように、
その婦人の彫刻は語りかけてくる。

アパート階上には普通に何人もが暮らしている。
はたして毎日此処を通りぬける住人はどんな気分なのだろうか。

しばらくすると、身なりの整った年配の紳士が扉から出てくる。
いつものことなのか、入口の彫刻など気にかける様子もない。


もしかしたらこの婦人の彫刻が話しかけているのは
限られたひとだけなのかも知れない、そんな気がした。
だとすると彫刻は自分にだけ語りかけているのか。

近寄ってじっくりと彫刻に視線をおくる。
アールヌーボー様式の草花が婦人を囲み、
表情は沈黙するかのように遠くを見据えている。



夕刻近く撮影を終えて、その日は足早にホテルへもどった。
帰り途中、地下鉄で婦人の顔が脳裏に浮かぶ。

建物に婦人が来て既に100年以上経っている。
これから先、変わることが無ければ数百年はあの場所で微笑んでいるかもしれない。

そう想うと、孤独な石の婦人にまた会いに行きたい気がした。




image1🌟


夏の休日に
裸足で聴くガーシュウィン


午後四時のヴィシソワーズ

よく冷えていることが大切である
器もまた同じだ

滑らかな口あたりと
野菜の奥深い甘さ


冷たく白いビロードが
身体のなかへ溶けていく





Template by :FRAZ